今日は思い込みの威力について。
自分の例なのでバレエに纏わることにはなるのですが…
「本場の海外のバレエ学校でバレエを学びたい」
私は昔ずっとそう考えていました。
なぜ海外に行きたいと思っていたかと言うと、
6歳の頃にボリショイ・バレエ学校の日本公演を観たからです。
幼馴染がバレエを習っており、そのお母さんから一緒に観に行こうと誘われました。
舞台の幕が上がって、自分より少し上くらいの子どもたちが行進してぞろぞろと出てきた時
「バレエって外国のものなんだ!外人のものなんだ!」
と衝撃を受け、一気にその世界に引き込まれました。
今でも鮮明に覚えています。
幼くて単純だったからとも思いますが、美しくキラキラした世界にただただ驚きだったんですね。
しかも年がそう変わらない子ども達による舞台だったからこそ、何だこれは!?と思ったのだと。
幼馴染はバレエを習っていて、実はその発表会は何度か観に行ったことはありましたが
皆同じお化粧、同じ衣装、同じような踊りで全然心が打たれず
全く面白くなかったことを覚えています(さとちゃんごめん)
そしてボリショイ・バレエ学校公演の帰り母親に
「さとちゃんのやってるのはバレエじゃない」
なんて言って母親に「しっ!」と口を押さえられたのも覚えています。(改めてさとちゃんごめん)
性格の悪い子どもでした。笑
その3年後くらいに自分もバレエを習うことになるのですが、
頭の片隅にずっと
「バレエは外国でするもの。本気でやるもの」
という思いがありました。
海外で勉強しなければならないものと言う思い込みが、その学校公演によって刷り込まれていたんだと思います。
今思うとですが、バレエは「趣味ではない世界」ということを、学校公演で感覚的に感じていたのかも知れません。
そして小学5年生くらいになった頃
中学校は義務教育、高校はそうではない というのを知った時、
「じゃあ高校行かなくても良いんだ!」「その3年、海外のバレエ学校に行こう」
と本当に単純に決めてしまいました。
なーんだ、ヨカッタ くらいの軽さで。
その思い込みの激しさと、周りに公言しまくった甲斐があり
結局、本当に中学校3年生の夏にオーディションのチャンスに恵まれて留学の許可がおりました。
しかも雲の上の存在だったあのボリショイ・バレエ学校へ。
英語圏に行けたらいいな〜なんて思っていたので(イギリス好きの母親の影響)ロシアなんて夢のまた夢でしたが
たまたまチャンスをくれたのがロシアだったんですね。
そして両親の理解があったからこそです。
そして中学3年生の2月末に一人でモスクワに向かいます。
そこからが
「本当に外国のものだった」
ということを身に染みて体験していく挫折の始まりではあったのですが。
この挫折に関してはまた別の機会に。
これは私の実体験ですが、
思い込みの激しさと、幼い頃に刷り込まれた単純な思想から、私は留学を叶えたのだと思っています。
上手だったとか才能があったとかではなく
思い込みも才能だったのです。
ただ、
「もともとバレエをするために生まれてきている人たちがいる」
という否応無く目に映る現実の中
自分がいかほどかという惨めな現実を知る中で
「才能が努力をさせる」ということも、私は留学生仲間の友人からも学びました。
上手になる子は、その才能がその子を努力させるんです。
羨ましくて仕方がなかった、いじけた自分がいました。
そして今思うのは、人には色んな能力がそれぞれにあるということ。
だからこそ、比べる必要もないことですが、芸能の世界も仕事の世界でも
人はなんだかんだ周りと比較されます。自分で勝手に優劣をつけてしまったりします。
結果が第一の競争世界もありますが、
実際の生活では、何が正解かは皆それぞれ。基準って曖昧なものなんですよね。
思い込みの激しさから失敗を招くことも多々あり、一概に良いことではない場合もありますが
失敗からしか学べないことも沢山あり、結局糧にしかなりません。
自分の望むものに対して素直にいることは、とても大事なことなのだとも思います。
大人になると事情が違ってくる場合もありますが、何かやりたいことや惹かれることがある人は
その自分の思いを無下にはしないで欲しいな、なんて思います。
やり始めてみたらどうにかなるってことも、案外多いもの。
努力を努力だと思わずいれることがあります。
そして何が成功かは人それぞれです。
目に見えるものだけ、世間に評価されている表面的なことだけが成功とは限りません。
周りにどう評価されるかではなく、本人がどう感じているかの方が大事だと思います。
つまり
前提を変えると、選ぶものもや思考も変わってくる、ということです。
これは何もバレエ留学に限らず、様々なことにも共通していることではないかと思います。
決めておくと案外そうなるってこと、多いと思いませんか🙂