7月末のシーズン・オフまでボリショイ劇場の特別展示室ではチャイコフスキーの『エフゲニー・オネーギン』特集
をしております。
余談ですが『エフゲニー・オネーギン』というとこの3幕のポロネーズの音楽に聴き覚えのある方が多いと思います。
このオペラが初演されたのは1881年のボリショイ劇場。
「失敗するかも?」という疑念があったので、1881年の初演の時は舞台装置や衣装は作られず、いろんな作品から衣装や装置やらあれこれ持ち寄っての上演だったそうです。寄せ集めだったんですね。笑
なぜ「失敗するかも」と思われていたかというと、
プーシキンの小説の舞台化が可能か否かという疑問もあったのだと思いますが
4年前の1877年に、この作曲家の大作『白鳥の湖』がこの劇場でも初演された際、大失敗に終わっていたからです。
さらに台本を忠実に描き、壮大な交響曲的に仕上げられていた音楽は、当時の聴衆にはちょっと難しかったというのが
その要因だとも言われています。
が、そうではなかったようで
当時のバレエの演目は、ダンサーたちが好き勝手に自分の得意な踊りを披露するということが日常的に行われていた為、
この『白鳥の湖』も同様、ダンサーたちは自分の見せ場を盛り込んだ踊りを挟み込んだそう。
つまり音楽の一貫性に欠けていたんです。
そして主役を踊ったポリーナ・カルパコワはすでに全盛期を過ぎていたということもあり、
イマイチ盛り上がりに欠けてしまったのだとも思います。
ちなみに
当時はバレエ音楽=二流というように、バレエ音楽を手がける音楽家は少し下にも見られていたこともありました。
何故かというと、演出家やダンサーの意思で曲をカットしたり短縮するように注文されたりし、
それに合わせて作り替えたり調整することを要求されたからです。
つまり 曲<踊り と考えられていたんですね。
なので簡単に作曲家の意図を無視してしまうので(そもそも意思を持たないようにしていたかも知れませんが)
何かを生み出したいと考えている作曲家としては欲求不満に陥ってしまうのは想像に難しくありません。
言われた通りに作曲することを得意とする人なら別なんでしょうね。
相手の意図を汲み取るいう能力も、それもまたイマジネーションがいるものですし。
しかしチャイコフスキーはもともとバレエ自体を愛していたようで、
『白鳥の湖』の作曲を劇場から依頼を受けた時は名誉に感じたでしょうし、自分なりの壮大な構想を練ったのだと思います。
しかし、残念ながらこの作品は評価されませんでした。
その後場所は移り、サンクトペテルブルグへ
当時の帝室マリンスキー劇場のウセヴィロジュスキー監督は1890年にマリウス・プティパ振り付け、チャイコフスキー作曲での『眠りの森の美女』を成功させ、
更に1892年には現在ではクリスマスの風物詩『くるみ割り人形』も作曲依頼をし好評を得た後、
1895年、『白鳥の湖』の再演(蘇演)を成功させます(!)
(三大バレエの誕生をこんなカンタンに段飛ばしのように書いて良いのでしょうか。笑^^;)
段階を踏んで・踏んで、再演に至らせた。彼はこのバレエの可能性を諦めなかったんですね。
ウセヴィロジェスキー監督が、プティパの振付家としての才能と、またチャイコフスキーの音楽性を信頼し諦めなかったからこそ、現代にまで続くこの三大バレエが続いている ということですね。
ただ1893年に、その上演を待たずチャイコフスキーは亡くなってしまいます。
その後様々な振付家や演出家によって手が加えられながら、現在もこの1895年に大成功を収めたプティパ版をベースにした『白鳥の湖』が世界中で上演されています。
誰もが聞いたことのある物悲しいようなオーボエの旋律のこの作品は
もし、プティパがフランスからロシアに渡っていなかったら
もし、ウセヴィロジュスキーが監督官になっていなかったら
もし、劇場のトップが保守的で不評を恐れてお蔵入りにしていたら・・・
といろんなことが歴史の時間の中で織り合わさったからこそ、作品が世に残ることになったんですね。
そう思うとどの時代も才能を引っ張り上げる「誰か」がいるものです。
そしていつの世も創り上げる人たちの尽力あってこそ物事って成し遂げられていますね。
1877年のポスターを眺めながら、そんなことに思いを馳せてしまいました。
*こちらは道化師で岩田守弘さんが出演されています。2002年のボリショイ劇場が改修前に入る時の映像です*
『白鳥の湖』に関してはまだまだ沢山ネタがあるので、これから色々アップしていきます♪
instagramのmavita_bolshoiの方も併せて覗いてみてください。