今日は人の死とインドの話と、ちょっと突拍子のない話です。
あまり世間のニュースには関心がないのですが、自死を選ぶ人は一定数いるのであり、それはその人の選択だと周りは受け止めていくしかないと言う風に私は考えています。
何か出来たのではないかと、残された人たちは必ず後悔の念に苦しめられますが、実際、出来ないんです。
死に至ってしまうと言うことは(どんな理由であれ)その人の寿命だからです。
なんて、とてもドライで冷たいように聞こえて不快に感じる方もいらっしゃるとは思います。
けれども、自分の体験としてそう感じています。
最近、モスクワ市内にあるインド村(別に村ではないのですがそう呼んでます笑)に行くのが楽しく
インドは何となく勝手に近しい感じがしています。
と言うのも、
昔インドに行った時に「ロシアと似ている懐かしさ」を感じた経験があります。
そして二十歳前後の時にエスニックな服装にどハマりしていた時期もあり、
インド綿の柄ワンピースにド派手柄のタイトなパンツ+ジャラジャラのピアス。
髪型は高い位置に結い上げたお団子に銀細工的なかんざし(トップにじゃらっとした何かが付いている)
こんな感じで闊歩していた時期があったのです。笑
もちろん家では香りの強いお香を常にもうもうと焚いていました。
…考えたら親は何も言わなかったので、その香りは嫌ではなかったのでしょう。
と思いたい。😂
そして最近前から好きだった密教からの
👉チベット仏教👉インド哲学👉アーユルヴェーダと興味を発していました。
アーユルヴェーダと東洋医学は双方同じくらい古い歴史を持つ医療なのですね。
知人に頂いて勉強している東洋医学の本がありますが、これ、
難し過ぎて中々覚えられませんが、見ていてテンションが上がります。笑
そしてアーユルヴェーダのハーブのサプリメントや日用品に目覚めてしまい、
最近また少しインドブームが来ています。
さて、私がインドに遊びに行けたのは、当時デリーの大学に留学していた友人のおかげです。
現在その彼は、東京の大学で民俗学の准教授をされています。
その彼が、もう10年以上前になりますが、私がある人の死で苦しんでいた時に
「死者は笑って見送れ」
と言う言葉を投げかけてくれました。
「残された人たちが悲しむことで、死んだ人の魂をより苦しめてしまう」
と言うようなことを言われ、この言葉がとても印象深く残りました。
確かに、考えても考えても仕方がないことだからこそ、寂しいけれど笑顔でバイバイしようと、何かが自分の中にひとしずく落ち、じわりと広がったような気がしました。
さすがインドの勉強している人だなーと何となく漠然と感じていましたが、その後、この言葉にはずっと救われてきました。
勿論、身近な人を亡くした残された人たちの悲しみは計り知れません。
しかしある期間、人によって様々なのでどのくらいと言う具体的な時間は言えませんが
その死をいろんな方向から眺めて受け止めて、自分の中の落ち着く場所を探していく作業が必要になります。
この弔いは一生かけるものかも知れません。
悲しみから少しずつ時間を掛けて気持ちを落ち着かせ、自分も、その亡くなってしまった方も癒されるように、ひたすら供養し続けるしかないのだろうなと思っています。
死者とともに歩む、と言うような感じ。
決してネガティヴなものではなく、死をもって近くなる感覚もあります。
色んな立場、関係、考え方・状況・環境、本当に人それぞれなので、これが正解だとは思いません。
ただ一個人として、現段階で私はこう考えています。
インドブームが再燃している中、ふと、その「死者は笑って見送れ」と言う言葉もまた、私の中に再びやって来ました。
世界中が変わってきているのを肌で感じますが、自分の身体と心を大事にして、周りを思いやり、今に集中することが、一人一人全ての人が自分で出来ることなのだなと思います。
たとえ本人は物質的にいなくなってしまっても、共に過ごした時間は決して消えません。ずーっと自分の中に残り続けます。
そうやって人って生きていくしかないんだなぁと、改めて思います。
と言うことで、
祈る人々を沢山目にしたインドは、その友人の言葉を含め私にとって死を思い出させる場所でもあります。
またカレーが美味し過ぎてあと何回食べられる!と滞在中はずっと指折り数えていたり、
牛に追い詰められたりいろんな宗教観にびっくりさせられたり、
なぜが90年代のロシアに似ていて懐かしかった場所でもありました。
そして生と死がとても近い場所。
混沌の中に自分を見ること。他者と関わっていくこと。人生には色んなことが起こりますね。
*おまけ*
モスクワの中の異国